ネスティの所へ至ったのとは逆の順序で、バルレルはエクスの前に一人で立っていた。
パッフェルはいない。夕闇の降りた部屋にはただ二人きりだった。
「……あれがネスティ・ライルの現状だよ。全てを知ったなら、トリス・クレスメントは今度こそ壊れるだろうね」
「だろうな」
エクスは芝居がかった動きで肩をすくめてみせた。
「さて、君としてはどうしたい? トリス・クレスメントに全てを話して、彼女を完全に壊してしまいたいかい?」
「はン、ニンゲンをボロボロにするのも一興だな、と答えているさ。前の俺だったらな」
だが、とバルレル。
「俺はトリスの護衛獣だ。トリスの事は俺が護る。精神にしろ肉体にしろ、もうこれ以上、アイツには傷一つつかせねえ」
「――立派な心がけだね、狂嵐の魔公子。最後の調律者を、これからもよろしく頼むよ」
「はン、その台詞は俺じゃなくてニンゲンのオトコに言いな――それで、メガネはこれからどうする気だ?」
部屋の空気が一瞬緊張した。
エクスはやや躊躇ってから、こう告げた。
「トリス・クレスメント達には任務を言い渡して、蒼の派閥にしばらく滞在してもらう。
ネスティ・ライルは最後の決着は聖なる大樹の下でないと着けられないと言っていたから。
そして、彼女にネスティ・ライルはアメルさんを元に戻す方法を求めて、旅立ったと伝える。
それで、終わりだ。具体的に、彼がどうするのかは知らないけどね」
バルレルは呆れたようにエクスを見た。
「オマエ、メガネが逃げ出すとは考えなかったのか?」
「有り得ないからね。僕と彼は誓約を交わしたと言っただろう? 僕が『全ての真実を永遠に隠蔽する』という誓約を飲んだように、
『メルギトスが抑えきれなくなった時が来たのなら、自分の命に代えてでも必ず奴を消滅させる』と言う誓約を、彼は結んだのだから」
凄惨な誓約の内容に絶句するバルレルに、エクスは小さく笑った。
「だから、彼は逃げられない。誓約は絶対のものだからね。召喚された、君になら分かるだろう?」
「――は、お前らの方が悪魔の俺より余程性質が悪ぃぜ」
そして、バルレルは立ち上がった。
「もう行くのか?」
「俺は俺の知りたい事を知った。もうここに用はない、メガネにもな。それとニンゲンに任務を言い渡すとか言っていたが――その必要は無ぇぞ」
「何故?」
「俺達はオトコの提案で、長い間ここに滞在する事になってるからな。オンナを元に戻す方法を探すために」
それを捨て台詞に、バルレルは扉を閉めた。
エクスはふう、とため息を吐き、ふと窓を見やった。
「いるんでしょ? パッフェル」
「ありゃりゃ、ばれちゃってましたか」
窓にかかったカーテンの後ろから声がして、さして悪びれた様子もなく声の主が姿を現した。手に、酒瓶とコップを持って。
「――これで、私とお姉さんを縛っていた過去が、全て消える。ゲイルは聖なる大樹に消えて……ライルの一族は、今日果てる」
「あなたの任務も終了、ですか」
そんな事を言いながら、パッフェルは机の上に座った。
軽い口調。しかしその瞳に浮かぶ色は深い。
「――やっぱり、長かったね。ただ罰し続けるために生きるには」
パッフェルは何も言わずに肩をすくめて、酒瓶の蓋を開けた。
「メイメイさんから差し入れですよー、トリスさんにもらったそうです。彼女、彼氏と来ていたそうですよ」
「そう」
無感動な相槌。しかしその口元は複雑な歪みを見せている。
「……どうにも上手くいかないものだね。どこかで修正できなかったのかな?」
その言葉に、パッフェルは動きを止めた。
「どうでしょう。どう頑張ったって、今の時点がベストな気が私はしますけどね。それこそ、奇跡でも起きない限り」
エクスは苦い笑いを浮かべ、頷いた。
「そうだね。世界は救われた、と。その奇跡が起こっただけ、行幸なのかもしれない。でも――」
パッフェルは続けようとするエクスの肩を叩いて止めて、抱きしめた。
彼女の胸に顔を埋めるような姿勢になったエクスには彼女の表情は見えず、ただ、声だけが聞こえる。
「それ以上悲しい仮定は言わないでくださいね、総帥。今が一番良い状態なんだって思い込まなければ、やってられませんから」
「……そうだね」
そう言って、エクスはパッフェルに体を預けた。
「エクス様……」
「すまない……今だけは、こうさせておいてくれ」
「……はい」
随分と帰ってきていなかった自分の部屋で、ネスティはただ一人、月を見ていた。
机の上にあったサモナイト石を手に取る。それだけでもうここに用はない。
ここにいるのは、時間が来るまでの待機。ただそれだけだ。
私物は派閥が処理し、ここには新しい誰かがすんで、じきに自分のいた証も消え去るのだろう。
トリスの部屋と、同様に。
「…………」
ほとんど新月に近い細い月は、鋭く銀色に光ってまるでナイフのようだった。
その光に、ふと思い出して懐のアヴィスに触れる。
(これで小屋に押し入る手間が省けたわけだが……バルレル、話す間もなく帰ってしまったな。最後の機会だったのに)
ひっそりと苦笑した。その時、部屋のドアがノックされた。
「…………?!」
慌ててドアの向こうを窺う。
幸いな事に、ドアの鍵は掛けてあった。
「ネス……いるの?」
ドアの向こうから、トリスの声がした。
息を詰めるのと同時、ざわり、と何かが体の奥でざわつくのを感じた。
すすり泣きと怨嗟の声が、己の耳の中で、血流の流れの音と共に聞こえ出す。
「…………」
息を殺す。ドアの向こうの彼女に、この部屋には誰もいないと錯覚させるために。
「ネス……?」
「…………」
永劫とも、刹那ともつかない時間の中で、彼は確かに思った。
――このまま、時がとまればよいのに、と
彼女が、扉越しにだけど傍に居て、自分の名を呼んでいる。
――それだけで、僕は何故こんなにも幸せな気持ちになるのだろう。
数度ノックが繰り返されてから、諦めたような吐息が聞こえた。
トリスの足音が遠ざかっていく。
完全にそれが消え去っても、ネスティは動かなかった。
いや、動けなかった。さまざまな感情が入り乱れすぎて
それはとてもとても大きくて、彼の中では納まりきれなくて、そのカケラが彼の目から温かさをもって、溢れ出していた。
「ああ……」
――ああ、どうして君はその気配だけで、その声だけで、僕をこんなにも人間にしてしまうのだろう。機械の自分になれつつあった、僕を。
堪らなくなり、彼は喉を震わせて泣いた。
――やがて時間になり迎えに来たパッフェルは、彼の目を見たが、何も聞きはしなかった。
パッフェルが御者台に乗る馬車がある。
人目につかないところで自分を待っていたそれに乗る前に、ネスティは周囲を見回した。
青の派閥の本部。その窓どれにも、明かりがともっている。
その中の一つに、こちらを見ている人影が映る窓があった。
ネスティはその窓がある部屋が誰の部屋か、そしてその人影が誰のものか知っていた。
だから、それだけで充分だった。
その人影に向かって、一礼。
もう、それだけでネスティは振り向かずに馬車に乗り込んだ.